· 

プロフィール その5 〜後天的な師と先天的な師〜

じーちゃん。ばーちゃん。

 

私は母方の祖父母のことをそう呼んでいました。

 

ちなみに一般的なイントネーションは

じ⤵︎ちゃん

⤵︎ちゃん

と伸ばすところで下がると思いますが、

私の呼び方は伸ばすところでフラットなイントネーションでした。

 

そして奇しくも、パートナーのMikiも昔から同じイントネーションで呼んでいたそうで、

それを知った時は少し驚きました。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

私は幼稚園の頃東京で、じーちゃん、ばーちゃんと同居していました。

 

それで一緒に過ごす時間が多いこともあってか、じーちゃんは私に勉強を教えてくれました。

 

小学生になって私が埼玉に引っ越してからも、じーちゃんは勉強を教えてくれました。

 

勉強を教えてくれると言っても、学校で分からなかったところを教えてくれるのではありません。

 

予習です。

 

数ヶ月分は進んでいました。

 

英才教育みたいなものですね。

 

それもそのはず、じーちゃんは私に「高給月給取りになれ」とよく言っていました。

 

じーちゃんは私を官僚にしたかったようでした。

 

そんなじーちゃんの口癖は、

「少年老い易く学成り難し

一寸の光陰軽んずべからず」

でした。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

私が埼玉に住んでいる間、じーちゃんは毎週1度勉強を教えるためにわざわざ埼玉まで来てくれていましたし、

私が東京のじーちゃんの家に遊びに行った時も勉強を教えてくれました。

 

それは私が小学4年の途中で札幌に引っ越してからも、

頻度こそ減ったものの、続きました。

 

ただ、今でこそ全面的に感謝していますが、

「教えてくれた」とは言っても

別な言い方をすれば勉強させられていたとも言えるので、

もっと遊びたいと思った時期もありましたが。

 

でも勉強を教えてもらって、お小遣いまでもらえるというのはなかなか贅沢な話ですよね。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

さて、じーちゃんは元々自動車修理工場を経営していました。

 

私が物心ついた頃にはもう自動車修理の仕事をしている姿は見たことはなかったです。

 

でも大工仕事がとても得意で、その工場の事務所の2階を自分で作ってしまうくらいでした。

 

そして、勉強を教えてくれた一方で、私をその工場にもよく連れて行ってくれました。

 

そこで私は木の切れ端に釘を打って工作したり、近くの空き地で虫を捕まえたりして遊びました。

 

幼少期の遊んだ記憶として鮮明に残っているのは、ほぼその工場で遊んだ記憶です。

 

他にもどこかに出かけたりはしていますが、その工場での記憶だけがひときわ鮮明です。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

私がまず好きになったのは、その工場にある鉄製の尖がった工具でした。

 

そこから徐々に刃物に心惹かれるようになりました。

 

初めて刃物を研いだのは、その工場に置いてあった、錆びた肥後守でした。

 

それから包丁も研ぐようになり、

中学生の頃にはナイフマガジンを読むようになったこともあり

自分で削り出しでナイフを作るようになりました。

 

その初作のナイフもその工場で作りました。

 

まだこの頃は刀鍛冶になろうとは思っていませんでしたが、

日本刀に漠然とは心惹かれていました。

 

ナイフを作るようになって、ナイフメーカーが将来の夢の一つにもなっていた時のことでした。

 

いくつかの将来の夢をノートに書き出していました。

 

ハッキリとは言っていませんでしたが、じーちゃんはそのノートを読んでしまったようでした。

 

気配でそう感じられました。

 

昔の記憶なので定かではないですが、確かその時だったと記憶しています。

 

じーちゃんはたしかこんなようなことを言いました。

 

「ちゃんと弟子入りして刀鍛冶にでもなるなら応援する。」

 

官僚になるようにと勉強を教えてくれていたわけですから、

ノートを見られたと感じた時はどのような反応があるか緊張しましたが少しホッとしました。

 

この言葉が本当に活きてくるのは何年も先の話です。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

じーちゃんが亡くなったのは、私が高校に入学するのとほぼ同時です。

 

じーちゃんとまともに話した最後の記憶は、入院中の病院からじーちゃんがかけてきた電話でした。

 

札幌の進学校である第一志望の札幌西高校に合格したのですが、

それを知ったじーちゃんから電話がかかってきました。

 

泣いて喜んでくれていました。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

高校1年の春休みに上野の東京国立博物館で開催されていた日本国宝展で、

国宝の刀『名物 観世正宗』に出逢って刀鍛冶になることを決意しました。

 

それまでは日本刀には漠然と心惹かれていたくらいだったのですが、

この名刀に出逢って、直感的に刀鍛冶になろうと思いました。

 

その辺の話はまた詳しく書きますが・・・

 

それで、色々考える前にまず刀鍛冶になると決意したわけですが、

後から色々考えると気になることの一つに、じーちゃんのことが思い浮かんだわけです。

 

じーちゃんは私に官僚になって欲しかった。

 

もちろん従わなければいけないわけではありませんが、

やっぱり少し気にはなったわけです。

 

でもそこで思い出したのです。

 

「ちゃんと弟子入りして刀鍛冶にでもなるなら応援する。」

 

という言葉を。

 

今思えば、未来を見越したような発言でした。

 

それに、じーちゃんの工場で色々なものを作った経験があって、

その延長で日本刀というものに出逢いました。

 

そして、刀鍛冶になると決めてから、

刀鍛冶として知識を活用することもできるだろうと思って受験した北海道大学の材料工学科に

合格できたのもじーちゃんのおかげです。

 

そういう意味ではじーちゃんは、後天的な一番最初の師として、

私のベースの部分を作ってくれたとも言えます。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

ここで、後天的な師と書いたのは、先天的な師もいるからです。

 

私の直感領域には、ただ私が感じているだけでなく、

“与えられている直感”もあるようにいつの頃からか感じていました。

 

そして一昨年から昨年にかけて数回、ある大天使とつながっている人が質問に答えてくれるというセッションを受けました。

 

それでふと気になって、昔のインドの聖者で誰に縁があるか尋ねてみました。

 

このセッションでは、漠然とした質問には答えてもらえません。

 

YES、NOか、選択肢の中から選ぶ形式にする必要があります。

 

そこで、思い浮かんだ聖者の名前を挙げていきました。

 

その中で、この3名の聖者に縁がありました。

 

ラーマクリシュナ・・・本人と直接は関わっていないが、ドッキネッショル寺院には縁がある。

 

シルディサイババ・・・縁はある。

 

ラヒリマハサヤ・・・弟子だ。

 

この時は「なるほど。そうなのかー。」

と思っていただけでしたが、

帰宅後、疑問点が生じました。

 

それまでのセッションで私の前々世が刀鍛冶であったことと、

その刀鍛冶は幕末の名工源清麿の弟子である上総国正直だという話でした。

 

でも、ラヒリマハサヤ大師について調べてみると、活動年代がかぶるんです。

 

現代ならまだしも、まさかその当時、日本で刀鍛冶をしつつインドで修行というのもなさそうだし・・・

 

と色々な可能性を考えてみました。

 

そして眠りにつきました。

 

明くる朝。

 

目が覚めてから布団の中でまた考えてみて、はたと気付きました。

 

このセッションでは、あくまでも質問に対する答えがシンプルに帰ってくるだけです。

 

ということはもしかして・・・

 

昔、弟子だったのではなく、

今、弟子なのか・・・

 

その瞬間、私の胸の中でパッと光が感じられました。

 

そして直感的に全て腑に落ちました。

 

胸の中の光は、ラヒリマハサヤ大師からの正解の合図と感じました。

 

上記の“与えられている直感”も、

私のコアに一番近いところにいるラヒリマハサヤ大師からのシグナルであると感じられます。

 

つまり、ラヒリマハサヤ大師は私の先天的な師として、

コアに一番近い部分から導いてくれているということです。